第六章 南海の女王陛下と関係する参詣地の数々(2)

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    第二節 Pelabuhan RatuのSamudera Beach Hotelの308号室の神秘と魔力

     

     ジャカルタのIwan Kamahによると、ロシアうまれで米国の輝かしいサイエンスフィクション作家であるIsaac Asimovが著書「Isaac Asimov’s Book of Fact = アイザック・アシモブの真実の本」に真実を書き込んだことがあった。この世で厄介で神秘的であるとしばしば理解されている数千の真実がありその中には論理に踏み込んで書かれている。奇妙なのは、健全な知識を持った人にとって信じがたい特異な真実があるということである。この記載とは「西ジャワ州のPelabuhan Ratu海岸の一軒のホテルにはインド洋海域の支配者の女神のための部屋がしつらえてある。」とAsimovは書いている。この記事が含まれたAsimovの本の読者にとっては躊躇されるものであり嘲笑の対象になろうとも、ジャワ島南岸地域に住んでいるジャワ人にとって、この真実は奇妙なことではないのである。

    (挿入写真はPelabuhan RatuのSamudra Beach Hotelの308号室、Nyai Roro Kidulの部屋)


    第六章 南海の女王陛下と関係する参詣地の数々(1)

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      第一節 南海の女王陛下の聖地の数々

       

       ジャワ人の神秘信仰によると、現在Lawu山の南部の頂上に位置していてSegarasewu王国の都となっている南海の女王陛下の主御殿以外に休憩や宿泊地としてしばしば女王陛下が利用している場所がたくさんある。既出の場所以外にPelabuhan RatuのSamudra Beach Hotelの308号室、KutowinangunのPadepokan Bulupitu、Karang Borong海岸、Parangtritis海岸、Parangtritis海岸のとあるホテルのひと部屋、Watugilang Parangkusumo、Langse洞窟とLangse洞窟海岸、マランの南岸、Pangandaran、NusakambanganのMasigit Selo洞窟、東ジャワ州のPurwaの修行場の端などがある。これらの場所は南海の王国へ入ることのできる入口を形成しているのである。

       これと同時に、著者は上記の重要な地点に関する解説を研究したので、しばしばジャワ人の神秘主義者たちの修行場とされた。ここに解説するものはすべてではないことは確かである。解説するものは南海の海岸沿いにあるものでジャワ人の神秘主義者たちが喜んで神秘主義信仰となった場所に限られている


      第五章 南海のSegara Sewu王国 (21)

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         しかしながら、上記のRatu Ayuの連携の影響はAdajilに直接率いられたCurawan Iblis王国の介入するところとなってしまい、後日に大戦争になってしまったが、東ジャワ州のPopoh海岸の近く[1]でCurawan Iblis王国の海軍をHyang Tunggalが破ることに成功した。不明確な数々の出来事を経由して、最後にはRatu Ayuも権力の第一線から退けられてしまった。

         宮廷内の浄化が起きた後、2008年7月以降Segarasewuの指導者層の交代が行われた。天上界の仕事のために南海の女王はcemthi pamutihとkuku pancanakaを掌握した第一位の女王としてRatu Ayuの師であったFirdaus I世によって掌握された。同時に行政上のノウハウに関する専門家であるRatu Ayuは現世界の仕事を担当する筆頭女王として機能することとなった。

         

        [1] こちらにあるようにPopoh海岸にはNyai Roro Kidulの祠がある。


        第五章 南海のSegara Sewu王国 (20)

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           アチェの津波の後で南海の王国が霊界で復権した時、Dajjalに率いられた悪Iblis Curawan王国が新たな敵対相手となった。この霊界の王国は、諜報組織と海軍力に関する大変優秀な武器を保持していたためその軍事力はとても強力になったと同時に霊界からの二人の師匠、霊界からはBanul JanすなわちAdajil(jinの四代目の王)とIblis (jinの三代目の王)にその権威が支持された。南海の王宮に広く効果的に張り巡らされた諜報機関の介入は、霊界での知識層ネットワークを独占しているHyang Bagas Purwaがそれとは気づかないようにして南海の女王の顧問(penasihat)としてのAdajilを巻き込むことによってより大変強力になった。この支配も、宮廷の第1軍の存在に対して影響をあたえる強力な軍隊の支持を有している司令官の一人であるDamarwulanを昇進させることで支持を受けた。

           残念なことに、宮廷がやや静まった後、Raja PersiaとDamarwulanを連携したRatu Ayuと、他の女王とGenthong GotriとMaikmayaを連携したSunan Lawuの間での抗争の影響で宮廷には混乱が生じた。Ratu Ayuはアラブの地のRatu Ariniの配下のkajimanのネットワークとAdajilの魔力を得たため、Sunan Lawuのネットワークは排除されてしまった。<174>


          第五章 南海のSegara Sewu王国 (19)

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             2008年1月9日 Suroの月の1日の晩に、Retna YuwatiとDurgaを含んだ南海の王国での反乱の責任者たちに対して処刑が実施された。同じ時期にIlmu batubulanの適用に対する戦いに負けた後で2008年1月14日の晩にBartofonioも検挙された。

             それに続く交代の際、Sri Maharaja Hyang Tunggalの称号をもって即位したRatu Ayuの従者としての新しい総司令官が任命された。業務を実行するうちに彼女は宝刀Nyi Ageng Mahespati(13の曲がりがある)を南海の女王の支配のシンボルとして、同時に超能力の独占者として用意したのだった。このようにして南海の女王の支配はHyang Tunggalの手中に入ったのである。Alas Krendhawahana[1]はRatu Saraswatiに与えられ、Alas Ketangga[2]はRatu Ayuのコントロール下に入った。<173>BaliとLombok地域はPatih Lestariの支援の下にRetna Sawijiに与えられた。財務はGenthong GotriとDewi Lanjarの秘書が担当し、実施は同時に来た王国の女王として承認されたNagasukma Jalmaである。王国財産の管理者は南海のNagabirawaとKhayangan ApiのMarwalであり、その行政監督と会計監査はNagaribuであった。Krendhamangintenの事務方はWatu Gunung大臣とPancarupa(内務)の脇にPringgandani[3]のSunan Lawu MudaとCemara Tunggal[4]のSunan Lawu CilikとTunggul WulungとKertapati (外務)が共に配置された。日常業務においては宮内業務”ndalam keraton”はKi TangguljatiとDewi Respati、Ki Ajar Mintaragaが管理運営した。

             

            [1] 中部ジャワ州サンギランにあるジャワ原人博物館付近

            [2] 東部ジャワ州Ngawi県Paron郡Bbadan村にある修行場<http://omdoyok.web.fc2.com/Ah_Indonesia/Aind-46/Aind-46.htm>

            [3] 中部ジャワ州のKaranganyer県Berjo郡Tlogo村 <http://omdoyok.web.fc2.com/Ah_Indonesia/Aind-43/Aind-43.htm>

            [4] 「一本松」の意味、これらはすべてがLawu山麓に位置する


            第五章 南海のSegara Sewu王国 (18)

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               王国の統制の復活には長い時間と大変な困難を要した。さらには南海の王国の一部の地域でもあるアチェでは津波[1]、ジョグジャカルタ・クラテンでは地震[2]として知られている大災害に見舞われた。ますます広くなった地域での行政能力はまだ十分とは言えない。このように、王国の権力はジャワの南岸だけでなく、西ペルシャから地中海の間とパプアを除く全アジアをカバーしている。それに加えてインド洋全水域とマダガスカルと黒島、喜望峰地域がある。

               本当は種々の事件から、Retna Yuwatiの叛乱以来、Kalayuwatiの道具としての動物や人間、霊体、pesugihanなどの犠牲を使って力を結集して、ノルマを採用しないRetna Yuwatiの性質は南海の女王に対して過剰な良くないイメージをもたらした。Kalayuwatiの支持者の泥に汚れた血はしばしば霊界内に多数の問題を生んだのだった。それゆえにエジプトにその根拠地を置く彼らのネットワークの必要性からしょっちゅう(自然)災害を利用したのであった。アチェの津波の惨事で彼らの行動で南海の女王を分断することに成功した。実際には反乱派はジャワでも津波が起きることを望んでいた。現在に至るまで津波はまだ起きておらずただただそれが起きないことを望むのみである。霊界の問題を一般的は理解していない人間社会は上記の悲観的な事件の全てを南海の女王になすりつけて非難した。

               

              [1] 2004年12月26日

              [2] 2006年5月27日


              第五章 南海のSegara Sewu王国 (17)

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                 2003年末に、新任の総司令官がPasir Kaliliの鞭[1]から生じた悪を一掃し始めた時CirebonのKacanegaraで戦争が勃発した。この戦いはUjung Kulon[2]、Ponorogo[3], Blambangan[4]の組織を巻き込んで拡大した。Cilacap[5]のpasir kalikiの中心部が破壊された時、Retna Yuwatiは激怒し決死隊である追討軍を向かわせた。東方にいた軍隊との間の連絡が途絶えていたのだが、その戦いの中で2003年12月14日のUjung Kulon[6]の戦いで、Retna Yuwatiの大軍は150,000名の連合軍をもって打ち破ることができた。Retna YuwatiとDurgaはTirtadhasarの宮殿で降伏した。上記の連合軍の中で最も勝利を決定づけたのはAl-Qadrの天使の軍であった。反乱の首謀者たちは裁判にかけられ、死刑判決を受けた。

                 2003年12月30日に王位はHyang Tunggalに移譲された。同時に、東部海域の制海権をもつRatu Mayangsari (SukuhとDalepihのWidonnonggo)で、西部海域の制海権を持つRatu Kencanasari (Lange洞窟とPelabuhan Ratuの)、公開に制海権を有するRatu Andarawatiに支援されたRatu Kencanawuguがまだ制海権を持っていた。これらの四人はすべて南海の女王である。<172>

                 

                [1] Pasir Kaliliはバンドゥン市内の地名だから、cemeti pasir kalikiとはPajajaran王国からの影響のことか。

                [2] ジャワ島最西端。

                [3] 東部ジャワ州の南東部に位置する町。

                [4] 東部ジャワ州のBanyuwangi付近

                [5] 中部ジャワ州の南西部の都市

                [6] バンテン州にあるジャワ島最西端。


                第五章 南海のSegara Sewu王国 (16)

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                   上記の著名人の中で、ジャワ神秘主義に関係して、しばしば南海の女王として受け入れられている著名人がいて、それはRatu Andarawatiである。Ratu Andarawatiは南海冥府の女王という名で知られているAngin-angin王夫妻の娘でありCempuri Rahegwesi (Kahtabgan Dalephi)の女王である。<171>この娘こそがPanembahan Senopatiの霊的な妻(garwa alus)になり、霊的な妻になった時にはRatu Pagedhonganと呼ばれた。Andarawatiはこのように南海の女王の大臣としての地位を得て上記の行政組織の一部として見られている。

                   2001年の第一四半期以降に、その翌年にソロモン王が決意した支援のある人間界のネットワークを確立することにRatu Ayuは成功した。2002年のMuharramあるいはSuroの月から、南海の軍隊のネットワークを回復するために新しい総司令官が昇進した。Prahaya王(ヒマラヤ)の共同作業のおかげで、最終的にはジャワと南海とインドの軍隊が統合された。それ以外にはal-Qadrの天使すなわち天使Rayuz (三番目の天の番人)がいた。


                  第五章 南海のSegara Sewu王国 (15)

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                     Retra Yuwatiが強力になってきたことで脆弱性が高まったため、Krendhamangintenの宮殿が733年にLawu山のArgapuraに建てられた。Krendhamangintenはマジャパヒトに似た宮殿群であり、周りを集落とSulaimanモスク(二階建てで中央部にドームを有する)に囲まれていてLawu山の千の薬草と花々がある公園を有していた。霊界から見るといくつかの門があった。人間界と霊界の間の第1の正門はCemarasewu付近にあり、Jalatundaの泉付近に第2と第三の門があり、ArgadalemとArgadumilahの峰の間のJalatundaの泉の100m上に第4の門がある。<170>その後、さらに二つの門がある、Jalatundaの方向から見るとその地点へのアクセスは、東側からはMarcukundha洞窟から、南側からはAmpyang山から、西側からはGrojogan Sewi、北側からはAtasangin山経由である。

                     支配と超能力の確立に関して、Hyang IsmayaとKi Ajar Dewasuryaの知遇を得てRatu AyuとSunan Lawuは人間とのネットワークと幽体とのネットワークに対する影響を拡大した。Ki Ajar Dewasuryaはジャワの土地を監視することになった。Hyang Ismayaは霊界を制御するとともに神秘的な顧問となった。Sriwara Puspakencanaと一緒にRatu Andarawatiに支援されて、王国の大臣として機能するとともに海域を制覇し、Ratu MayangsariはCandi Sukuh寺院群の宿舎でPuri SukuhのRahinayaと一緒であった。Ratu Kencanasari (Banjaransari殿下とSogaluhのRatu Prajnaの娘)は、Goa Langse (Pamancingan)の宿舎とKedhaton SonjiでRara Dalenggiと一緒であり、他方Goa Kiyana (Gunung Srandil)の宿舎はGus MuhammadとSyekh Abrurrahmanの支援を得た。西ジャワのためにRatu AyuはPelabuahn RatuのKi Ageng Sentalamayaの代理となり、PajajaranのRatyu Mayang支援も受けた。


                    第五章 南海のSegara Sewu王国 (14)

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                       この政権交代は1700年に反乱を起こしたRetna Yuwatiに不快感を掻き立てた。Retna Yuwatiは実際にDewi Angin-anginの一番目の弟子であり、女王陛下の姪でもあった。<169> Pacitan海岸での大戦争で、Ratu Ayuの軍は敗北を期し、ジャワの南岸地域の大部分は敵の手中に落ちた。Retna Yuwatiは「南海の女王」としと自称して王位に上った。組織的なRatu Ayuの指導とSunan Lawu (Sepuh)の魔力があったにもかかわらず、Rembang (Mpu Baradhah), Mantingan (Syek Jumadil Kubra), Suku Domas (Nyampo), Gunung Bromo (Dada Pekak), Blambangan (Maulana Ishak), Alas Purwo (Mahesalanang), Segara KIdul (Bengawan Danu)の各地のネットワークの活性化を推進した。ワリソゴの影響が内陸部の伝道組織を含めて、Banten, CirebonそしてTandes[1]で開花した。Retna YuwatiはRatu Ayuを退位させるのに成功はしたものの、Ratu Ayuの影響はAmangkurat I世[2]の統治下をはじめMataramの宮廷に及んだ。

                       Dewi Kalayuwati (Retna YuwatiがRaung山のKalagandhamayitの妻になったためこう呼ばれるようになった)はDurga[3]の魔力を支配しDajal[4]の知識としての月の強さを吸収した後、超能力を持つようになった。Kalayuwatiの軍事力を強化するために海岸地域の人達を有害な方法であるいは金持ちにしてやるというような約束をして集めたのだった。同時に能力を向上させるために、命ある動物と人間あるいは血を提供する特別な伝統儀式を発展させた。Kalayuwatiの強さは多数の人間や家畜さらには幽体の犠牲のもとに出来上がったものだった。


                      [1] スラバヤ西郊の町。北幹線沿いで、グレシック南方約10km。BantenもCirebonもサルタン国。

                      [2] マタラムの第四代サルタン。在位1646年 - 1677年

                      [3] ヒンドゥー教の女神で「近づき難い者」の意味。

                      [4] 世界の末期に現れる悪魔

                       


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