南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(10)

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     一方、ジョグジャカルタでは、1867年の地震で倒壊してしまったが同じような塔が存在した。(Lombard, 1996:118) サルタンと南海の女王との邂逅は、masjid Pendhem (地下のモスク)群がその中にあるSumur GumulingのTamansariで行われている。Tamansariは南海の女王とジョグジャカルタの王のための特別な施設である。それどころか、Serat Surya Rajaに見られるように、霊界に疫病や災害が生じた時には南海の女王がこのMasjid Rendhemに避難すると信じられている。(Ricklefs, 1974:85)

     Hamenku Buwono IX世以来「老女」となってしまった南海の女王の地位はどうなっているのだろうか。ジョクジャカルタの人達にとって、Panembahan Senopatiの遺産のようにサルタンと南海の女王との関係に変化はないのである。サルタンと南海の女王との結婚は、日本を降伏させたインドネシアを支援することで1945年の暴力革命時代におけるHamengku Buwono IX世に対して支援を与えたのであった。この話がHamengku Buwono IX世からの強調でないところが残念である。<125>


    南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(9)

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       Surakartaの宮廷は1985年まで、南海の女王を宮廷のあがめるもの(pepundhen)として位置付けてきた。1985年に焼損した宮殿を修復しようとしたときMasjid Pujasanaでの起工式でRT. PujadipuraはKRMHの命令を受けた。祈りをささげるためにRiyo Yosodipuroがいた。この祈りの中で、Nabi AdamとSiti Hawa[1]に対してムハンマドとその一族郎党、Nabi Khidir, Nabi Ilyas, Sunan Bonang, Sunan Kalijaga, サルタンHanyakrakusumoの関係を提示した。諸王の子孫達とともに、新宮殿の建材としてDonoloyoの森の木材に恩恵をたまわるように、祖先とともに、四方の方角の守護神Sunan Lawu, Ratu Kencanasari, Ratu Kedhaton, Ratu Kalayuwatiを祀った。(setiadi, dkk., 2001: 137-138) <124>

       やがて、南海の女王とSurakartaの王の邂逅は、Pakubuwono III世の時代の西暦1781年に建てられた宮廷の前庭の北側にあるSanggabuwana舞台で行われていると信じられている。この四階建ての建物には王のみしか入れず強いパワースポットとなっている。

       

      [1] アダムとイブ


      南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(8)

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         南海の女王の地位の不明確さに関して新聞紙上で論戦が行われてはいるが、同女王はいまだ確実に宮廷のいろいろな儀式の中心になっている。南海の女王はいまだに定期的に臨席すると信じられている。Surakartaの王の即位記念日(jumenengan)には毎回、南海の女王とPanembahan Senopatiの結婚を物語る聖なる宮廷舞踊と宮廷音楽の9人の踊り子の中に登場する結婚衣装をつけて同女王は儀典室に常に出現すると信じられている。この舞踊は今に至るまでSurakartaで演じられており、ジョグジャカルタでは1930年代以降は演じられていない。ジョグジャカルタではこの聖なる舞踊を再興しようとしているが、踊り子の一人が病気になったり、上演前にほかの悪い兆候が現れたりするなどの障害に直面している。それ故、南海の女王はジョグジャカルタ王国でのこの舞踊の公演を許可しないという話が信じられるようになった。(Woodward, 1999:248) この舞踊の話からでもSurakarta宮廷の人達は、南海の女王の恩恵を確実に有していると感じるため気持ちに余裕を持っているのである。


        南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(7)

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            この話の内容は、Mataram国内のオランダ植民地政府の存在に対する宮廷内の意見が実際に存在したということを指し示している。まずは、G.W. Baron von ImhoffとJ.A. Baron van Hohendorf (Surakarta市のKartasuraの司令官でありSemarangの総督でもあった)が既に存在したことがあげられる。オランダ植民地政府と諸王との争いでは、彼らは南海の女王に対する問題を上げるのが常であった。Diponogoro王子の敗北(1930年)後、Langse洞窟で南海の女王に参詣するとともにアドバイスを仰ぐためにPakubuwono VI世は六人の部下たちと宮廷を去ったが、Mancinganでジョグジャカルタの知事であるJ.F.E. van NesとB. Sollewijn中佐に捕縛された。(Houben, 2002: 60-65) 植民地政府の記録に述べられたこのような行為はPakubuwono IV(1789年)とDiponegoro王子 (1805)に対しても行われたのだった。

           後日ジョクジャカルタ側の勝利とはなったが、宮廷の伝統の中で、南海の女王の姿かたちもスラカルタとジョグジャカルタ側との政争に関係した。この件は、悪霊に誘惑された王子が注意を払わず道を誤り、南海の女王が怒ってSurakartaの王を「継子」と思ったので南海の女王はKasunanan Surakarta(Surakarta王宮)に対しては単に「継母」であるという、ジョグジャカルタの市民に知れ渡っている物語に見られる。この話は第二次大戦後にSurakartaの王家が衰退したとして解釈されている。このように、王国はジョグジャカルタにあってスラカルタではないとジョクジャカルタの市民たちの概念を構築し、さらにはMataram王国の発祥の地がスラカルタではなくジョグジャカルタであるという歴史にささえられているのである。<123>

           

          続く


          南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(6)

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            興味を引く事実とは、たぶんHamengku Buwono II世の時代に書かれたと思われるSerat Sekondharの中で南海の女王がオランダ植民地政府のPajajaran地域の支配とも関係していて、植民地の総督に「eyang =長老」という名を与えたりしたことである。この文芸作品は、Pajajaran王(南海の女王の甥)の子孫のうちの一人の結婚を通じて、南海の女王とBaron Sekendherとの血縁関係に関連したものである。この結婚はバタビアの総督たちを生み出したJangkung (J.P. Coenのあだ名)を生み出した。(Ricklefs, 1974:373-379)

            参考資料

            Serat Sekondharの中にこう述べられている。

            Dewi Mundingsariは光輝く膣を持っている魔術的な意味での「熱い」Pajajaranの王女であり、彼女と結婚できるのは異常な霊力を持つ男だけであったため、この女性と結婚できるジャワの王は存在しなかった。最後にはこの不幸な王女は男性のリンガに似た山門の大砲を結納金としてオランダに売られてしまった。Jan Pieterszoon Coenの父である神秘的なBarong Sukmul、ジャワでのオランダ人の先祖、は最終的にDewiMungdingsariと結婚し、Diponegoro往時のように19世紀に見られるジャワ人によってPajajaran王国の相続人として理解されている新しい王国をSunda Kelapa[1]港に建国した。

            出典: https://www.instagram.com/p/BFEsQ1nRVPM/

             

            [1] 現在のジャカルタ市北岸にある古い港湾。


            南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(5)

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               Mataramが分裂してKasusunan SurakartaとKasultanan Yogyakartaになった後、南海の女王をめとる権利はどちらにあるのか、諸王は迷った[1]。南海の女王を二つには分けられなかったのは当然であるが、合意に基づいて宮廷の遺産は二つに分割された。で、偏向したいろいろな話が後日出てくるのである。ジャワの諸王の霊界の妃にはもうならなくなったと伏せられた情報があるのは確かだが、おばあさんという呼び名で「長老」の位置に置かれたとはいえ、その一角には南海の女王と諸王との結婚話が確かにある。故Sri Sultan Hamengku Buwono IX世は、彼が数日間の断食のようないろいろな儀式を行った後、南海の女王を見たと説明した。月が上る時にはその人は美しい若い女性で、その反対に月が没する時にはさらに年を取ったおばあさんとして見えた。(Tahta Untuk Rakyat, 1982:247)。<122>この告白は南海の女王の長老としての地位を少し正当化するものである。

               

              [1] Kurang cair


              南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(4)

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                 南海の女王の臨席はOpak川(Prambanan)[1]の戦いの勝利に関係づけられる。より多勢の敵をやっつけるため、SenapatiとJuru Mertaniは南海の女王とMerapi山の支配者の協力を求めた。Merapi山の噴火と土石流を伴い霊界の軍隊が大変にぎやかに到着した。Hadiwijaya[2]の幕営が壊されたあと、HadiwijayaはGilinganまで退却しTembayat[3]を目指し、最後には象から落ちてしまった。(Meinsma, 1874:90-91; Santosa, t.t.:264-267) <121>

                 一方、Imogiriに諸王の墓廟群を建設した時、Sultan AgungはAlas Ketanga出身のResi Nayadi Dayaningratの忠告で南海の女王の支援を求めた。多数の作業員たちが死ぬ大量で頻繁に襲ってくる毒蛇の攻撃を退けるためであった。最終的にKyai PenghuluとTemenggung Wiragunaは森を切り開いて上記の墓廟群を建設することに成功したのであった。(Babad Sultan Agung, 1980: 56-62, 250-259)


                [1] Prambanan寺院群の南側を北東から南西にかけて流れる川で、寺院の対岸にはRatu Bokoと呼ばれる山上の遺跡がある。この遺跡は戦略的に良い位置にあり、砦などがあったはずである。

                [2] Pajang国の太守。

                [3] Opak川の東方約12kmの現在のKlatenに位置する。


                南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(3)

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                  長いこと南海の女王の神話が出てこなかったが、「ジャワ年代記」で南海の女王とPanembahan Senopatiとの恋物語が語られた後、南海の女王はPanembahan Senopatiの王妃であるという伝説が生まれ、南海の女王の呼び名は新Mataram時代に再発見された。(Meinsma, 1974: 10,21,79-82,90-91; Wiryapanitra, 1945: 63; Santosa, t.t.:256-257, Olthof, 2007:93-98) Carita Parahyangan[1]とジャワ年代記の間で人物が異なっているだけである。Carita Parahyanganがその中で最初に述べて目的としているのは南海の女王であるならば、一方の南海の女王について述べているジャワ年代記では、この人は本当は南海の女王の第一の部下の一人の女王に過ぎない。

                  Serat Centiniにおいて南海の女王は、Kahyangan Dalepih[2]で修業を行っていた女行者に関するSukuh寺院(1457年頃に建設された)のMajapahit碑文とつりあいが取れたKahyangan Dalepih (Wonogiri)の伝統に結び付けられている。すなわち、Jatha洞窟(Dalpih)のWodanonggaは南海の女王の娘であり、後日王位に就くTanjungbangのAngin-angin候の妻である。この二人の王妃はともにこのようにPanembahan Senopatiの随行者となった。Ratu Dalepih Ratu Kidul, kagarwa nJeng Senapati, dadya bu maru lan putra, rumeksa wahyaning aji「南海の女王のDalepih妃はSenapatiの妻ではあったがこの愛妾であり子供であり王を守護した」[3](Serat Tjentini, 1989:8/18-19)

                   

                  [1] パラヒヤガン物語 16世紀に編纂された古代スンダに関する物語。

                  [2] 中部ジャワ州Wonogiri, Tirtomoyo, Dlepih村。正式村名はDlepihであり、観光地になっている。

                  [3] 南海の女王のDalepih妃は上記の二人の女王はPanembahan Senopatiの愛妾であったとともに、実際にはこの二人こそが全てのマタラム王の子孫の保護者になったとはいえ、すべてのマタラム王の愛妾でもあった。(Sudarto Hs氏訳)


                  南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(2)

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                     SennaがMerapi山に逃げ込んだのはSoekmonoも書いているように、その理由はSiekmonoによるとSriwijayaの侵攻ではなくPurbasariによるとGaluh[1]からのものである。資料Carita ParahyanganもSoekmonoにPasundanの歴史資料として証明されている。(Soekmono, 1981:40) Mataram王国の都は、Canggal村のGunung WukirのリンガとSanjayaによって建設されたことがある寺院の遺跡によって証明されるMagelangの南西に位置するCanggal村に確実に位置していたので、Merapi山に逃げ込んだことは腑に落ちるのである。これ以外に、Merapi山は霊界の王国の都として信じられていたこともある。

                     上記の文章で意味するRahyangta Kidulとは南海の女王自身に他ならない。Poerbatjarakaによると、Rahyangtaとは遠い昔に亡くなった人に対する古い呼称であるがゆえに、この呼び名はこの亡くなった人の霊を意味している。(Poerbatjaraka, 1975: 36-37) 上記の南海の女王とSenna王との関係は、その場所もKali Opak河口からそれほど遠すぎることはない、Syekh Bela-BeluとGagang Akingの話と関係を有すると思われるのてある。この聖人と古Mataramの背後関係に関連して、西暦732年から1000年頃まで存在した古Mataram時代から上記の河口に近い聖所になっていたという推測が出てくる。(De Graff & Pigeaud, 1985: 280-281)

                     

                    [1] ジャワ島チタルム河の西岸以西の地域を支配したスンダ人の王国


                    南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(1)

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                      第一節 ジャワ文学の中の南海の女王 <118>

                       

                       ジャワ文芸において、人間と関係する南海の女王に対する信仰の登場は八世紀以降に見られることは確かである。歴史家たちや研究機関や知識人たちの大部分が南海の女王の神話はジョグジャカルタのイスラム・マタラムの時代に登場したと述べている。一部の研究機関によると南海の女王は口伝の物語であり子供のおとぎ話に過ぎないと理解されている。他の一部は、大衆を組み入れる方法の支配政策の重要事項であるがゆえにマタラム王国の政治的に重要だと関連付けている。

                       最古の歴史的記録の中にSanjaya王の下で西暦732年に古マタラム王国の建国に南海の女王がすでに関係したということがみられる。Sannaという名の最古の王が亡くなった後の繁栄期にMataram王国はSriwijaya軍の攻撃を受けて壊滅した。「Parahiangan物語」に見られるような脱出行で、SennaはMerapi山に避難し、その後Rahyangta Kidulに保護を求めた。<119>Na sang Sena diintarkeun kegunung merapi … ….Anggeuh sakamantrian lung aka rahyangta kedul. (Sena様はMerapi山にお隠れになり ……その高官たちはRahyangta Kidulに行ったという意図がある) (Poerbatjaraka 1975: 36)


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