南海冥府の女王 第二章 ジャワイスラム神秘主義と南海冥府の女王 (51)

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     それゆえに、霊界の魂としての南海の女王に置かれた主従関係(王への霊の随行あるいは霊界からの好意で援助される随行)という形をとることがジャワの王の権威に関する財産の中での南海の女王の概念としてより確かになるのである。支配者というものは、地上におけるカリフの業務を進めるために選択された人たち、すなわち望まれた人たち、がアッラーから得た仕事であるal-malaikat al-hafadzh (守護霊)の一群を含むイスラム神秘的概念での南海の女王からの随行を王が確実に得たとき、王の仕事と国家の治安を支配者は進めることができるようになる。確かに、現在のシステムにおいて個人の能力と知識レベル、その神秘的な能力を十分に受け入れるレベルに達することは気われて稀であるゆえに、ジャワの王や指導者のすべてが上記のジャワ(インドネシア)の指導者としての諸条件を推進できるとは限らないことが問題になってくることは明らかである。。ゆえに、このインドネシア共和国における支配者になる必須条件のため、ジャワイスラム神秘主義の概念で求められるようないろいろな神秘主義的機能とunderaning ngelmuを最適化するための能力に関する問題が最終的には極めて重要かつ困難な問題になるのである、

     それゆえに、その後、ジャワと「列島」は、過ぎ去った時代のように進歩と平穏と繁栄へ向かうことに対するいろいろな大きな障害を現在でも実感しており、これは単に南海の女王が「すでに効力をなくした」とか「神の恩恵」という要素によるものではない。その最大の影響は我々自身の個人個人にあり、より詳しく言うと、良いボスになれる条件満足し説明するunderaning ngelmu[1]に従う行動と方法を取りたがらない役人と事業者、指導者なのである。

    第二章 翻訳終了 2017/11/09

     

    [1] Sawego Hening Underaning ilmu : The essence of science.  Dwelt Ares The center of acknowledge


    南海冥府の女王 第一章 霊界に関するジャワ神秘主義 (23)

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      アラビア語でwalimahとはインドネシア語で宴会を意味する。マレーシアとシンガポール版の上記のハディスの解釈本に注目すると、上記のハディスにあるaulimという語は全体的に「宴会を催す」という意味に訳されそのような意味を持たされていることがわかる。Kenduri(宴会)という語は、アッラーへの祈祷の後での食事会を意味するペルシャ語のKanduriが語源である。イランでは、その意味とは、ムハンマドの娘であるSayyidatina Fathimah al-Zahraへの礼拝の後の食事会である。

      Al-walimahは、縛ることあるいは馬の鞍を意味するal-walmual-walamという語幹を有している。その意味は、決心ゆえに背中の部分を縛ることで強化された胸部を強化する紐なのである。(Lisan al-‘Arab, 2003: j.9, 403ページ)<32>この基本的な意味をもとに、walimahが、友情を再度密着させて強化させる形として、食事を提供するという意味を持つようになった。Walimahあるいはこの食事の提供は、肉親の情や友情の具現に関連したものでありさらに強力になる。だからその時の料理は毎日の食事と異なって特別に料理するのである。

      Ibn Mandzur (2003: 9/403)によると、Al-walimahは結婚披露宴あるいは何かの所有を意味する宴に供される食物として理解できる。その意味は、幸運とともに歓喜の感情がやってこさせる神の御恵みと所有の観点ゆえに、提供される食物は謝意をとしてのものである。Ibn Mandzurは続けて、Al-walimahとは「結婚披露宴とそれに類する宴会の際に寄贈されたかあるいは食事として提供されたすべての食べ物から構成されているもの」だと述べている。Ibn Maddzurも、預言者が娘Zainabの結婚の際に祝宴や晩餐会をもようしたということを発見したのである。そして、このことは正しく、Imam al-Bukhariの個人史についての話に掲載されている。

       

      続く


      ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 訳者あとがき (3)

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        カタカナとアルファベット漢字対照表
        読み方 アルファベット 漢字・日本語 参考
        イスラム Islam イスラム
        うけん Yu 于謙
        うんなん Yunan 雲南
        えいらくてい Yung-lo 永楽帝
        かじんそうだい Kapten Cina 華人惣代
        ぎじょう I-tsing 義浄
        けいせい Hwui-ing 恵生
        サカ çaka サカ
        さんぶつせい Sriwijaya 三仏斉
        サンポコンびょう Klenteng Sam Po Kong 三保洞廟
        シーア Syi’ah シーア
        シャフィー Syafi’i シャフィー
        ジャワ (英)Java (イ)Jawa ジャワ 爪哇
        ジャンビ Jambi
        しゅげんしょう Tsu Yaung-tsyang 朱元璋
        シンゴサリ Singasari シンガサリ
        スマトラ (英)Sumatra (イ)Sumatera スマトラ
        スリウィジャヤ (英)Srivijaya (イ)Sriwijaya シュリヴィジャヤ (仏)Çrivijaya
        スンダ Sunda スンダ
        せききょう Shih Heng 石亨
        そううん Sun-yun 宋雲
        そんかい Sun Chiang 孫迥
        チャンパ (英)Champa (イ)Campa チャンパ
        ちゅうかしょうかんちょう Kapten Cina 中華商館長
        ちんそぎ Chen Tsu Ji 陳祖義
        ていわ Cheng Ho 鄭和
        ナガラクレタガマ Nagarakratagama ナガラクルタガマ
        ばかん Ma Huan 馬歓
        バタック Batak
        パダン Padang パダン
        ハナフィー Hanafi ハナフィー
        パララトン Praraton パララトン
        パレンパン Palembang 旧港
        ひしん Feh Tsin 費信
        ファーティマ (英) Fatimid (イ)Fathimiah ファーティマ
        ふくうけんさくかんのん amoghapāśa 不空羂索観音
        ふっけん Hokkian 福建
        ほっけん Fa-hien 法顕
        マジャパヒト Majapahit マジャパヒト
        ムアラブンゴ Muara Bungo ムアラブンゴ
        もうき Meng Ki 孟棋
        ゆんけい Yin Ching 尹慶
        れっとうのちかい Gagasan Gusantara 列島の誓い
         
         

        ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 訳者あとがき (2)

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          人名対照表
          この本の原文中には同一人物であるがその異名を使用して表記している。以下はその対照表である。この対照表を印刷して手元に置きながら読むことをお勧めする

           
          通称 本名 別名 別名
          Adipati Wirasejaya Tan Eng Hoat Maulana Ifdil Hanafi  
          Adityawarman çrimat çriayâdityawarmma prâtapaparâkrama râjendra molimaniwarmmadewa mahârâjadhirâja Thuanku Janaka Udayâdityawarman Pratâpaparakramarâjendra Mauliwarmadewa
          Arya Damar Swan Liong   Jaka Dilah
          Bhre Kahuripan Tribuwanatunggadewi Jayawisnuwardhani  
          Damar Wulan Bhre Parameswara Mertawijaya  
          Dara Petak   Indreswati  
          Grindrawardhana Dyah Rabawijaya çri mahãrãja, çri Wilawatikta Daha Janggala Kadiri prabu nãtha  
          Jafar Sadik Ja Tik Su Sunan Kudus  
          Jayanagara   Wiralandagopala Kala Gemet
          Kassim   Muzaffar Syah  
          Kencana Wungu Su King Ta Suhita Kusumawardhani
          Kertanagara     Jaka Dolog
          Marah Silu   Malikul Saleh  
          Menak Jingga Bhre Wirabumi    
          Muhammad Murjani Kun Sen Pak    
          Muhammad Muryano Kun Sam Pak Tumenggung Arya Wiracula  
          Muhammad Syafi’i Tan Sam Cai    
          Ngabei Loring Pasar Sultan Mataram
          Danang Sutawijaya
          Senapati Ing Alaga Saidin Patanagama Panembahan Senapati
          Orang Kaya Abdul Kadir   Mahdum Alaiddin Abdul Kadir Syah  
          Parameswara   Megat Iskandar Syah  
          Perkasa Alam Iskandar Syah Sultan Iskandar Muda Perkasa Alam  
          Raden Kusen Kin San Husein  
          Raden Mas Rangsang Prabu Pandita Anykrakusuma Sultan Agung Senapati ing Alaga Saidin Panatagama Sultan Agung
          Raden Patah Jin Bun Al-Fatah  
          Raden Rahmat Bong Swi Hoo Sunan Ngampel  
          Raden Said Gan Si Cang Sunan Kalijaga  
          Raden Surya Yat Sun 逸孫 Sultan Yunus Pangerng Sabrang Lor
          Raden Trenggana Tung Ka Lo Sultan Trenggana  
          Raden Wijaya Nararya Sanggrama Wijaya Kertarajasa Jayawardhana Brawijaya
          Sayid Abdul Aziz   Alaiddin Syah  
          Sunan Prawata Muk Ming    
          Syarif Hidayat Fatahillah Toh A Bo Sunan Gunung Jati Pangeran Timur
          Feletehan
          Wilatikta Arya Teja Gan Eng Cu    
           
          続く

          ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 訳者あとがき (1)

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            訳者あとがき
             
             2011年から読み始めたSlamet Muljana教授の下記歴史読本三部作を2015年9月にようやく読み終えた。
            • Sriwijaya (1960, 再版2006)
            • Menuju Puncak Kemegahan (1965, 再版2005)
            • Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-Negara islam di Nusantara (1968, 再版2006)

             訳者はインドネシア語の専門家でも歴史の専門家でもないのでインドネシア語で書かれたこれらの本を読み進むのには相当の労力が必要であった。しかしながら、わずかながらでもインドネシア語の読解力が進んだようにも思う。

             著者は1921年ジョグジャカルタの生まれで1986年にジャカルタで没した。これらの本は1960年から1968年にかけて出版された。著者は歴史だけではなく地名学や語源学などの専門家であった。

             同教授は才気が溢れすぎているためかあるいは講義録を本に書き下ろしたためなのか、登場人物の名前が同一文中でも別名で書かれていたりすることが多く、訳者を含めて歴史の知識がない人たちにとっては理解しがたい部分もかなりある。さらに、中国側の史料は欧文訳されたものからの引用だと思われ、引用元の名前が違っていたりした。また同教授はジャワ人のようで、インドネシア語の辞書にないジャワ語の単語も頻繁に使われていたので、ジャワ語の辞書も買わざるを得なかった。

             この本が書かれた時代はインドネシア共和国の独立の23年後であるので、人々の心にはまだ独立戦争の記憶が生々しく、インドネシア独立魂が燃え盛っていた。この本の中でも同教授のインドネシア魂が時々顔を出しているのを感じられるだろう。

             この本の内容の理解を深めるために参考用として登場人物の人名対照表やカタカナとアルファベット対照表、年表、支配者たちの系譜などをここに掲載する。年号は西暦を用いた。

            続く

            ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 第九章 胡椒交易争奪戦とマラッカ海峡 (29)

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               A-Famosa要塞が陥落した後、ポルトガル人たちはマラッカで自由人として生きるかゴアに戻るかの二者択一を迫られた。覇権はポルトガル人の手からオランダ人の手に移った。1511年末に構築され130年間耐えたマラッカのポルトガル要塞A-Famosaは1641年1月16日に陥落したのであった。

               オランダの仲裁でオランダ側に有利なAcehとJohorの間の抗争に終止符が打たれた。Acehはマレー半島から撤退した。Acehに服するのはPerakを残すのみになった。オランダ側は交易を統制し始めた。1614年の6月にオランダは錫の輸出に関する通商条約をKedahと締結した。Kedah地域で産出される錫の半分はオランダ側に売らなくてはならなくなったのである。同様な条約が1645年にUjung SalangとBangeriとオランダの間で締結された。マレー半島の錫の交易はオランダの手中に落ちた。Maluku諸島の香料交易はオランダ商人たちに支配された。<293>マレー半島とインドネシアでのオランダの支配は徐々に商業から支配へと広がった。インドネシアのイスラム国は内部の覇権争いの影響で細かく分裂してしまっていた。このイスラム国の大部分は内部から崩壊していたのであった。外圧でこのイスラム国は無秩序に分離し、きわめて統制のとれたオランダの動きに対抗することができなかった。Jayakarta王子から最初にオランダが得た資本はJayakarta港の土地であった。この一区画の土地の支配が徐々にインドネシア全土にわたる植民地支配の芽を育てたのであった。オランダから持ち込まれた資本とは、第一に強い愛国心であった。この強い愛国心は内部から崩壊を始めていたイスラム諸国のインドネシア民族の愛国心と対抗した。オランダ人を動かしたその強さは既に分裂していたイスラム国を滅ぼすことに成功したのであった。彼らが持ち込んだ装備は組織運営のうまさと戦略の知識、それに当時としては現代的な武器であった。マラッカの町の崩壊はオランダ人に植民地支配を発展させる機会を与えたのであった。
               
              訳出終了 2015/9/29

              第九章 おわり

               

              ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 第九章 胡椒交易争奪戦とマラッカ海峡 (28)

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                 ポルトガル人たちに対する同情は、原住民たちのみならず外国人たちの間でも急速に冷めて行った。ポルトガル人たちはインドネシア海域に現れた他のヨーロッパ人を敵とみなした。そのことから、彼らは互いに敵対視するようになった。彼らは互いに撃破しようとした。Aceh人たちとマレー半島のMelayu人たちはもうポルトガル人に信用を置こうとはしなくなった。Iskandar Muda Perkasaに率いられたAcehサルタン国はマラッカの大敵になった。絶え間なくマラッカは海からのAceh軍の攻撃に遭った。追い返されたりはしたものの攻撃は突然行われ、ポルトガル人たちを警戒態勢に追いやったのであった。ポルトガル人たちは最初の頃のように自由に航海することができなくなった。航行中のポルトガル船はオランダ艦隊のみならずAceh艦隊に突如襲われるのが常であった。マラッカは常に海から包囲されていた。ポルトガル人は多すぎる敵を持ってしまったのであった。

                 1639年にオランダ側はJohorのサルタンと友好条約を締結した。八月にはオランダはマラッカ攻略の準備が整った。しかし、スリランカでポルトガル人たちとオランダ人たちのとの間で銃撃戦が始まったというニュースが届いた。スリランカの領土保全のためにオランダ側はマラッカ攻略計画をひっこめ、軍隊の一部をスリランカに派遣した。総督Van Diemen将軍は1640年5月15日にマラッカ攻撃を決定した。これ以外にもオランダ側は計画済の攻撃にAcehのサルタンIskandar Saniを誘った。この誘いは一旦断られたがJohorのサルタンのとりなしで最終的には受け入れられた。陸上部分を占領するために900名の兵士がマラッカ港の北側に上陸した。海からはオランダとAcehの艦隊にマラッカは包囲された。ポルトガル人たちはA-Famosa要塞に立てこもり正面から銃撃を浴びせた。ポルトガル人たちは遠距離砲で発射しながら要塞で防戦した。1641年1月初旬に多数のオランダ軍将校がポルトガルの砲弾にあたって戦死した。Caertekoe大尉が司令官に上げられた。1月14日から二日間大規模攻撃が行われた。ポルトガルの防衛線は攻撃で破壊され始めた。最終的に1月16日にポルトガル総督は降伏した。二日後に彼は死んだ。その遺体はオランダ人たちによって軍隊式で土葬にされた。この事件からこのポルトガル総督はオランダの共同謀議者ではなかったかという疑いが浮かんでくるのである。

                続く

                ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 第九章 胡椒交易争奪戦とマラッカ海峡 (27)

                0
                   商魂以外に、ポルトガル人たちはその当初、篤い信仰心を持っていた。彼らはキリスト教を広めるという夢を膨らませて東方諸国に航海したのであった。キリスト教の牧師や神父が列島の諸島[1]にキリスト教の牧師や神父がやってきた中にフランシスコ・デ・ザビエル[2]がいた。しかしながらこの宗教心はやがて色あせ、商魂と物質的な豊かさを求める方向に変化した。かれらは金儲け競争をするようになった。宗教的モラルは地に落ち、儲け探しがそれを払拭してしまった。宗教的情熱と商魂との融合が東方諸国への航海におけるポルトガル人たちの成功を後押ししたのであった。しかし、宗教的情熱の火が消え、商魂が独り歩きするようになると残虐行為が多数行われた。個人の利益が崇め奉られるべき宗教の教えをおしこめてしまった。このようなことで、部下に対する権威を失った領主が多かった。その影響で上下関係が疎になり、たがいに対する尊敬の念もますます薄くなった。上官の命令に服そうとしないために、軍の規律を退ける軍人も多かった。彼らは海賊として遊弋したのであった。

                   1619年以来、ジャワ北岸にできたBatavia要塞は商業のみならず軍事面でもマラッカにとって強敵となった。ポルトガル人たちの競争相手はマレー人やインドネシア人たちではなくオランダ人たちになった。彼らは同じくヨーロッパ出身であり、その当時の最新鋭の兵器を持参していた。インドネシアの胡椒と香料の独占交易はポルトガル人のものだけではなくなった。他のヨーロッパ人がインドネシア海域に出没し始めた。その最初はオランダ人で強力な競争相手となった。フランスとイギリス商人たちもインドネシアに現れたのだった。
                   
                  [1] (訳) インドネシアの島々
                  [2] (訳) 原著ではFransiscus Xaveriusという綴りだが、スペイン語ではFrancisco de Xavier

                  続く

                  ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 第九章 胡椒交易争奪戦とマラッカ海峡 (26)

                  0
                     多数のポルトガル商人はやる気をなくした。商魂が衰えた。東方諸国からの香料や胡椒、錫を積んだ船のリスボン港への入港も減少した。ポルトガルの領主たちの間での利潤さがしの情熱はもはや制御されなくなってしまった。簡単に儲かったものは簡単に漏れるのである。おそらく国庫に入ってポルトガルに送られるこの利潤は領主たち個人の利益になってしまう一方、東方諸国の艦隊と軍隊の費用は、国内での徴税額が不十分で海外から収入が入ってこないため、ポルトガル政府にとって非常に重いものになった。<289>

                     ポルトガルは小さな国で国土面積は80,000km2で16世紀の人口は約50万人であった。ポルトガル艦隊はインド洋と太平洋を支配し一世紀上にもわたり香料交易を独占してきたにもかかわらず、アジア大陸沿岸部の東方諸国を支配する夢は持っていなかった。ポルトガルは征服国を支配する十分な人口を有していなかったのであった。ポルトガル人にとって重要なことはすぐに高い利潤を得られる独占交易であった。商品を輸送する商船の安全のために彼らは一つの場所から別な場所に素早く動くことのできる強力な艦隊を創設した。彼らは商品を保管する倉庫群を海岸に建設し、攻撃された時の防御のために要塞を構築した。Malabar海岸のゴアやハレー半島西岸のマラッカは強力な防衛都市となった。これらの場所では死に物狂いの防衛が必要とされたのであった。ゴアとマラッカは利益の源で軍事力の拠点となった。マラッカ港市はすでに長いことポルトガル人側とAceh, Johor, Demak側の奪い合いになっていた。その後オランダ人たちもその奪いあいを受け継いだ。ポルトガルでの人員の不足からポルトガルからの支援は来なかったのであった。

                     ゴアとマラッカのポルトガルの総督の任期は極めて短かった。1515年から1550年までの間に10回もの総督の交代が続いた。この極めて短期の任期は早く私腹を肥やそうとする支配者たちを後押しし、既存の計画を変更し実行する十分な時間は与えられなかった。さらに、新しい計画を実行に食い込ませる機会がないままに退任の時期がやってきたのであった。後任者は何も知らなかったのであった。<290>二年間だけという総督の任期は業務に多大な損害を与えた。

                    続く


                     

                    ジャワ・ヒンドゥー王朝の衰退とイスラム諸国の勃興 第九章 胡椒交易争奪戦とマラッカ海峡 (25)

                    0
                       それ以降、Aceh人の攻撃がなくなりはしなかったものの小規模のものが実行されただけであった。この攻撃は1551年と1574年、1575年に行われた。最後の最大の攻撃は1627年のIskandar Mudaによるものであった。マラッカの町は包囲されたが、包囲網はまたも失敗した。ポルトガル人とAceh人の戦いは二年間にも及んだ。<288>この攻撃はポルトガル人たちの闘志を劣化させる原因にはならなかった。ポルトガル人たちの闘志を弱めた衝撃とはAceh人でもJohorからでもなく、スペイン人からのものであった。1580年にリスボン港がスペイン人に支配されてからはポルトガル人の商魂も闘志も下がった。1580年以降ポルトガル人は防衛的な態度をとるようになった。リスボン港のスペイン支配は仕事に対する情熱、商魂、闘志を殺してしまう衝撃として感じられた。仕事に対する情熱、商魂、闘志の減少は内部からの崩壊であった。たとえば動脈はきちんと働いているのに心臓を刺されたようなものであった。

                       ポルトガルがスペインに支配されてからは、ポルトガルはスペインの意向に従わざるを得なくなった。国家財政の元であり国民の繁栄と平和の元であったリスボン港は完全にスペインの支配下に入ってしまった。このようにポルトガルの国家財政の元であり国民の繁栄と平和の源はふさがれてスペイン人の手に落ちた。国家収入と国民の繁栄は下がる一方国内からの徴税額は不十分であった、スペイン商人たちも東方の諸国へ一緒に航海するようになった。ポルトガル人は東方諸国での香料や胡椒の独占商売を支配できなくなったのである。

                      続く

                       

                      calendar
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