第五章 南海のSegara Sewu王国 (4)

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     上記の元公務員の経験は、南海の宮殿は王座と魑魅魍魎[1]からなる守備隊がそろっていると述べたMoerywati (t.t:10)がそれを補強している。南海の宮廷の住人の大部分は女性であるとも述べている。一方、そこで行儀の悪いことをしないかと人々が常に心配するゆえにParangkusumoは聖なる畏れ多い場所であると社会的に認知されている。この海岸でいろいろな禁忌を犯すかれらは自分自身にとって良くないあるいは悪い事件が起きると信じられている。

     ジャワ社会では、行政上のみならず毎日の生活においても南海の女王陛下が自分の従者をしょっちゅう追加していると信じられている。南海の女王陛下はGusti Ratu Akingという名の子供と結婚させるために毎年女性を一人必要としていると別なバージョンでは述べている。このバージョンは、これをサポートする参考資料がまだないために伝説の形をとっている。この必要とされている従者たちはまだ生きている人間の魂からしばしば採用されるのである。<161>南海の女王陛下(より正確には南海冥府の女王Nyai Roro KidulあるいはNyi Blorong)は必要とされる人達を探すために兵隊を派遣するのである。

     南海の宮殿での生活は人間界での生活と差はない。鍛冶屋やダーラン、ガメランの歌手、大工などこの世界で生きている人であり、南海の女王陛下が必要とするとははいつでも彼らはその特技で宮廷官吏となるのである。犯罪を犯した人といえども、南海での生活でも人間に悪事を働いたり人生の邪魔をしたりするのである。このグループは南海冥府の女王あるいはNyi Blorong司令官の下にある。南海の女王陛下の宮廷の住人になるために女王陛下が必要とする人は悪魔に取りつかれた死んだか、遺体が見つかることがない南海の波に巻き込まれて溺死したと普通言われている。ジョグジャカルタの多くの庶民の言によると、Parangkusumo海岸で悪魔に取りつかれて死んだ人は、しばしばその人の前に海があるのがわからず、素晴らしい道が続いているとだけわかっているとのことである。あたかも、その眼前には非常に興味を引くなにものかがあるようで彼はそちらに向かって押されていくのである。南海の宮殿の住民の大部分は女性であるので、一般的に南岸で悪魔に取りつかれて死ぬ人は男性である。

     

    [1] 原文ではJin, Peri, Wewe dan Tong Tong Sotとなっている。


    第五章 南海のSegara Sewu王国 (3)

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       南海の宮廷は実世界にあるものと同じものと考えられている。この宮廷には、宮殿や広場、植木、家畜、道路、宮廷使用人など、例えばジョグジャカルタの宮廷のような感じで目に見える宮廷と似ている。Parangkusmo地域を監督したことのある公務員は南海の宮廷に関する神秘体験を明らかにした。

       

       「1946年にインドネシア海軍の兵士たちがParangtritis海岸付近に駐屯していた。とある晩に、弊社の前においてある大砲の上を緑色の服を着た兵隊が馬に乗って飛び越えていくのをかれは目にした。これからまもなく、多数の兵士たちと近隣住民たちは病気にかかった。この事件は兵士たちと住民たちを不安に陥れた。Hamengubuwono IX世は直ちにこの事件を聞きつけた。そして、当時Bantul県Kretek郡の郡長であった私に会うべく使者を送ってきた。この使者は私に、Kretek郡の郡長として、Parangkusumo海岸に送り届けてほしいために来訪するKanjeng Sinuwunからの使者がいつ来てもいいように準備を整えておくようにと指示した。Kliwongの木曜日の晩にその使者、当時ジョグジャカルタの市長であったKRT (Kanjeng Raden Tummengung)のSoedarisman PoerwakoesoemaとKRT Poerwoningratが来訪した。我ら三人はParangkusumoで修行[1]を行ったがその晩には何の結果を得ることもできなかった。その晩、サルタンHamengkubowono IX世がこの修行のための使者を送ってきた目的を知らされてはいなかった。海軍兵士が行った誤った行為が何であれ南海の女王陛下に陳謝するというその目的を知らされた後、そこの管理人に連絡するはるか前のKliwonの水曜日の晩からその修行を再開した。<160>我々四人は修行を再開したが、宮廷からの使者の二人は深夜になるまえに居眠りをしてしまった。深夜になって私はParangkusumoに星の雨が降るのを見た。その後、王宮前広場や植木など宮殿が見えたのだった。あたかも私がPenguraan (ジョグジャカルタの宮殿の北側の広場の北側)にいて南に面しているようだった。この場所から、宮廷前広場で列をなしている薄緑色(gadhung mlati)の軍服を着たすべて女性の兵隊たちが乗馬しているのを見た。それから間もなく日傘をさした南海の女王陛下が登場し、閲兵した。居眠りをしていたHamengkubuwono XI世の使者の足が触れたため、幻想はそこまでで消えてしまったのだった」。

       

      [1] 原文はtirakatとあるので断食などの苦行であろう


      第五章 南海のSegara Sewu王国 (2)

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         ジャワ人の概念では、かれらは馬のみならず馬車も使っている。一般的にlamborの音は35日に一度、夕刻の礼拝に向かう夕方にMerapiの宮廷と南海の宮廷を結んでいる川を経由するとともにジョクジャカルタの宮廷地域を通じて騒々しく現れるのである。上記の宮廷間の関係は、Merapiの宮廷と南海の宮廷の間で頻繁に精霊の婚姻が行われているゆえに、家族的な性格を有している。一方、ジョクジャカルタの宮廷の支配者と「特別な関係」を有していること以外に、ジョグジャカルタの宮廷側と関係も南海の女王陛下がジョグジャカルタのサルタン国王たちの祖先になっているため、家族的な性格を有している。

         南海の宮廷の支配構造に関する説明はジョクジャカルタの宮廷とほとんど同じであると多くの人に信じられている。支配を行っている王は大臣たちと高級宮廷官吏たちに補助されている。南海の女王陛下は国内担当大臣[1]のNyai Riyo Kidulと国外担当大臣[2]のNyai Rara Kidul(南海冥府の女王)の二人に補助されている。国内担当大臣の職務は王宮内の高級官吏と王宮内の儀式を管理することを含んだ王国内の業務を処理することである。一方、行政に携わっている王は大臣と宮廷の高級官吏に補助されている。一方国外担当大臣は精霊の兵隊たちを配下において支配することである。この二人の大臣以外に、南海の女王陛下は、行政を進める手伝いをすることで大変に役立つ子供と高級宮廷官吏をも有している。<159>

         その子供たちに、毎年の結婚記念日を祝うと信じられているGusti Ratu AkingとDewi Sumpene RatuKlimahがいる。この毎年の結婚記念日こそが、ジャワ人がSuroの月の間に常に実施されると信じているものなのである。彼ら二人は、普通mbucal badan (南海の地域で断食と瞑想を行う)の時に忠告と宝物を与える南海の女王陛下と一緒なのである。数ある高級宮廷官吏の中で南海の女王陛下の信仰を持つのはKyai Taman Wakulと Kyai Jangkung Sari, Jaka Lelana, Jaka Wasesa, Jaka Waspada, Jaka Sembrana, Jaka Jomenggok, Dhadhung Awikである。

         

        [1] Patih lebet

        [2] Patih jawi


        第五章 南海のSegara Sewu王国 (1)

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          第一節 神秘的体験がSegarasewu宮廷にはいり込んだ

           ジャワ社会の一部の意見によると、南海は普通の目では不可視のKajiman[1]宮廷を構成しているのである。すなわち、そこの住人はから成立している。確かにこの意見は全体的にみて正しくはない。霊体はSegarasewuのいろいろな住人の一部であるだけだ。他の住人はアッラーに臨まれた人間の死霊である。南海の宮廷とは大変神聖な宮廷の地域なのである。

           この宮廷の最初の門はとしてあるのはParangkusumoで各地に点在する他の入り口の門とともに存在する。ジャワ社会では、南海の女王は超能力を集中させることができる精霊[2]の女王となっており、したがって南海の宮殿は幽体の力が満ちていて神聖な地域として見られている。この件で、南海の宮廷の存在は、本当はMerapiの宮廷とジョグジャカルタの宮廷と切り離すことができないのである。上記の三つの宮殿は相互に訪問しあったり、援助しあったりして連絡しあっている。<158>上記の関係はジョクジャカルタの宮廷が主催する海神祭り[3]の儀式として示されている。

           これ以外に、ジャワ社会ではlampor[4]の存在を信じている。ジャワ人によると、一旦このlamporの声を聴いた時その人は拍子木あるいは叩けるものならなんでも叩かなくてはならない。その意味は巡回してきている霊界の兵隊たちの馬を進ませることで追い出して、彼らの巡回路周辺の住民に迷惑をかけないようにすることである。Lamporは、戦闘訓練を行ったり、精霊の宮廷間の相互訪問あるいはジョクジャカルタの宮廷への訪問を行っている南海の宮廷からとMerapiの宮廷からの霊界の軍隊から構成されている、

           

          [1] ジャワ語で霊界の意味

          [2] 原著ではlelembut

          [3] 原著ではlabuhan

          [4] 人間の魂を霊界のために持っていく霊的軍隊の行進


          南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(51)

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             Sarotamanの獲得とともに南海の女王とDiponegoro王子の邂逅の神秘的な伝統儀式を説明するBabad Diponegoroの中にあるものがこれ[1]なのである。

             

            (ジャワ語なので翻訳できず=中略)

             

            大サルタンからのDiponegoroへの恩恵の依頼は大サルタンの墓へ使者を送ることで実施された。この使者がサルタンの墓廟に入った時、彼は真っ白なベールを見た。その後、墓廟を出ようとした時に彼はそのベールには血痕が付いていたのを見た。<156>

            この二つの出来事は、Diponegoroが武力闘争を指揮して出血するという必然性を示している。たとえ、Diponegoroが本物の戦争や戦闘に巻き込まれていなくても、である。闘争への自信は単に上記の二つの兆しによるものでないことは確かである。これらの兆しは、闘争の目的に合法性を与えるとともに、すでに亡くなった人たちからの恩恵を得るためであったことも確かである。

            第四章 訳出終了 2018年8月20日


            [1] 省略したジャワ語の文献はこちらからダウンロードしたもの。http://arikapika.blogspot.com/2014/02/babad-tanah-kelahiranku-pacitan.html


            南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(50)

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               ここで見つかったいろいろな要素以外に確かに言えるのは、ジャワ戦争以前からDiponegoro王子は敵対する国民を率いる自信が足りなかったとともに、確かにジョグジャカルタとジャワの王族たちは全般的にその多くがオランダとの和平を好み、少なくとも敵対の意思を表すことを好まなかった。したがって、Diponegoroはアッラーにその指示を仰ぐ必要があった。そしてその一つの方法は先達の墓なに参詣することであった。

               Diponegoro王子の行為の一部は南海の女王の恩恵を願う方法であり、また大サルタン[1]からの恩恵を願うことであった。

               およそ、南海の女王の恩恵を願い、ジョグジャカルタの南岸のParangtritis付近のSecan洞窟で南海の女王と会ったDiponegoro王子自身であった。Diponegoro王子の願いは聞き届けられた、その印として南海の女王は、伝承によると影絵芝居の時代のDrona僧正の息子であるAswatamaが当初は所持していたSarotaman (Aswatarmanとも呼ばれる)小さなクリスを与えたことであった。この武器でDiponegoroはジャワ文化におけるsipat kandel(遺言)と呼ばれるなにものかを得た。

               

              [1] マタラム王家のサルタン


              南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(49)

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                 Diponegoro王子は1875[1]年11月11日の夜明け前に生まれ、The Versailles of Javaの環境下で育った。偶然という要素もあったかもしれないし、生誕の70年前にあったのとおなじような最後の奇跡になったゆえに、生涯で七人の妻と名前が分かっていない数人の妻たちを持ったDiponegoro王子は1855年1月8日月曜日の夜明け前にMakassarのRotterdam要塞内の一室で息を引き取った。

                 このようにして、Careyは本のカバーに「謹呈。Diponegoro王子の家族と子孫へ」と書いており、ジョグジャカルタの貴族によって開かれた独立への道の一つは、このひとと同じ国民の子孫として我々全員がこの努力を称賛するとともに実行するのである。そして、諸祖先の霊に与えられる最重要なものの一つは完全に民族の和解をすることである。

                 一方、この本の中で南海の女王との関係は、すでに出会ったことが述べられてDiponegoro王子に少しスピリチュアルな忠告を与えた南海の女王の存在に関して何が提供できるだろうかということとみられ、学界から高い賞賛を受けている。<153>上記の宝物に富んだ自国においてさえそれほど賞賛されないのは残念であるということができる。

                 

                [1] 1785年の誤植


                南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(48)

                0

                   ジャワ戦争の終結後、マラリアに冒されたDiponegoro王子はジャワ全土の最高宗教指導者(ratu peneteg panatagama wonten ing Tanah Jawa sedaya)と自称したがった。オランダによる幽閉のあと、Kyai Ageng Bandayudaという名の小さなクリスを携帯することを許されたDiponegoro王子はメッカ詣でを強く希望した。オランダが与えたお金の一部を別に蓄えていた。Jendral Van derr Capellen (在任期間1819-1826)にスマランから拒否されるようになり、Diponegoro王子はMagelangのhajiからもらったzamzamの水を飲んだ。<152>人生を閉じるまでメッカ巡礼に行くというDiponegoro王子の希望をオランダが受諾することはなかった。

                   Careyによると、ジョグジャカルタの王族であり当初は中立的で何ら政治的野望を抱いておらず、オランダという不信人者に対して「聖戦」を宣言したDiponegoro王子を後押しした要素が二つあり、それは1823-1825年に中部ジャワを襲った土地制度の危機とジョグジャカルタでオランダ高官が指示した実情に合わないいろいろな行動であった。これ以外にもDiponegoro王子が作り上げた宗教的戦争への意欲が反オランダへの敵対を続けさせることになったこともその理由としてあげられる。Diponegoro王子をして牙をむくようにさせたのは、当時事実上ジャワの王国は強力な軍隊を保持していたこともその要素に含まれる。ジョグジャカルタ王宮ではそのかわりに、オランダが熟慮した武器を使い馬も使うのが上手な女性の軍隊(Royal Amazon Corp)を保持していた。


                  南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(47)

                  0

                     第12章でCareyは、Remakamalにおいてオランダの使節JB Cleerensを後日無理やり言わせた幾つかの戦いの前線において、敗退を喫したDiponegoro王子の軍に示されるジャワ戦争の竜頭蛇尾さについて詳しく語っている。オランダ軍のthe commander-in-chiefであった副総督のHM de Kockの奸計により、ついにDiponegoro王子は1830年3月28日にMagelangで捕らえられた。Diponegoro王子と主要メンバーの逮捕の過程を復元すると、1830年4月5日にスマラン港経由でバタビアに護送されるまでになり(Diponegoro王子のバタビア着は同月8日)、Manadoでの幽閉場所までの長距離移動と最後にはMakasarまで行ったとこの章では述べられている。

                     まだまだ多数の興味ある記事がこの本には開設されている。例えば、幼少のみぎりDiponegoro王子はイスラムを学ぶことを影響させた祖母を含めた家族の女性たちに囲まれていた。Careyも、blangkonを被ってジャワの服を着たDiponegoro王子の若い頃のスケッチを入手することができた。事実、Diponegoro王子はMelayu語もオランダ語もよく話せず、Ngoko(目下のものに使うジャワ語)を話す方を好んだ。Diponegoro王子はオランダ領インドとアラブの地図についていろいろと知りたがった。かれも欧州風の食事マナーをよく理解していた。Diponegoro王子はKentang Welandaやパンなどのオランダ料理を好んだ。ワインを飲むことを拒否したとはいえ、バタビアからManadoにやってきたCorvette Polluxの接待の際には薬として無理やり飲まされたのであった。


                    南海冥府の女王 第四章 ジャワイスラムの古典の中の南海の女王(46)

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                       Diponegoro王子の軍隊の基地となったTegalrejaは1825年7月20日にオランダと地元のその同調者たちに襲われた。Diponegoro王子と彼の軍隊ははるか前にGuwosari Panjangan BantulのDusun Kentolan Lorにある洞窟のSelarongに退却していたのでかれらはDiponegoro王子をとらえることに失敗した。Diponegoro王子はこの洞窟の西側にあって瞑想の場所にもなったKakung洞窟と呼ばれる洞窟に居を構えた。一方、二人の妻が無くなった後に同王子に最も忠実に従った愛妾のRaden Ayu Retnningsihとその侍従たちは東側にあるGoa Putriに居を構えた。この戦いがジャワ戦争の口火となった。1825-1830の戦争中、戦費の調達と社会政治の結果は第11章にCareyは詳しく解説している。敵対行動をとりつつも、神秘学の教師に従ってDiponegoro王子も神秘的な行動を熱心にとり続けた。Careyが書き落した神秘学の教師の一人が1840年頃に亡くなって中部ジャワ州のBoyolaliにあるGunungan Cepogoに葬られたKyai Ageng Imam Shalehであった。敵対行動の期間中Diponegoro王子も南海の女王とコンタクトをとろうとしたことは確実である。<151>


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